私はたくさんの友人はいらないと思っている。むしろ「たくさんの友人」という言葉自体に強い疑問を感じる。友人がたくさんいるということは、友人ひとり当たりと接する時間も気持ちもエネルギーも確実に限られる。それでは「たくさんの友人」ではなく「たくさんの上辺の知人」ではないかと思ってしまう
— Ryuta.k (@Rkpb_R) 2021年7月1日
私たちは「友達100人できるかな♪」という歌を保育園〜小学校低学年で習います。
歌に限らずとも両親の教育であったり学校の道徳授業などを通して、
潜在的に「友達が多いのは良いこと」と覚えこまされる傾向があるようです。
幼児期〜児童期を通して行われる「友達が多いのは立派な子の証、友達が少ないのはダメな子の証」
という半ば洗脳的な教育は私たちの人生をその後何十年にもわたり拘束します。
中学、高校、大学では友達のいない人を「ぼっち」扱いします。
「ぼっち」という言葉には社会生活をまともに営めないヤベー奴、集団から落第してしまった社会不適合者、というニュアンスが含まれます。
数年前に「便所メシ」と言うワードが流行ったのも記憶に新しいですね。
「一緒にご飯を食べる人がおらず、食堂で一人で食事をしているのは恥ずかしいからトイレで食事をしてる大学生が増えている」という社会現象を言い表したものですが、
「便所メシ」という単語それ自体が、中立的な表現ではなく、ある種の侮蔑的な態度を含んでいるように感じられるのは私だけでしょうか。
社会人になればそこまで露骨な表現はされないにせよ、
週刊誌を立ち読みすれば「友達のいない大人は深刻な社会的問題を抱えている」系の記事が大きくクローズアップされていることが多々あります。
「孤独中年の悲劇」「孤立老人の最期」など、表現を変えた「ぼっち揶揄 中高年ver.」があちこちで、週刊で、繰り広げられているのはご存知の通りです。
友達がいないってそんなに悪いことなんですかね。
冒頭ツイートでも述べたように私は「たくさんの友達」という表現に疑問を感じていますし、
深い繋がりの極少数の人間関係だからこそ「友達」と呼ばれるべきなのではと思っています。
友達が100人なんてあまりに馬鹿らしいです。
「俺には友達が100人いる」なんて人に出くわしたら、
「多分そのうち95人は君のこと友達だと思ってないよ」と言ってしまいそうになります。
実際そうでしょう。
ビジネスでは「深く広い人脈」など成り立たないように、
恋愛では「深く愛し合ってる人が何人も何人もいる」なんてちゃんちゃらおかしいように、
「友達100人」も成り立たないと私は考えています。
友達は多くなくていい
友達は少なくていい。
友達は無理に「作る」ものではない。
もし今、友達がいなくても大人になったら1人ぐらいはできるよ。
もし大人になって友達が一切できなくても自分と親友ならそれでいい。
もし幼少期にこんなことを教えてくれる大人が周囲にいたならば、
思春期の人間関係で苦しんでいた私もきっと救われていたんだろうなと、何となく思います。