「議論」とは人を打ち負かすことではない。「あいつを論破してやった」と調子に乗っている人がいるが、論破は子供がすることだと思う。自分の意見がある。相手の意見がある。双方の優れている部分を認め合ってテーマを深掘りしていくのが「議論」だ。優れた「議論」に論破は必要ない。
— Ryuta.k (@Rkpb_R) 2021年7月25日
「論破」をテーマにした書籍が書店に増えたなと、先日ふと感じました。
書店は「皆が今求めていること、欲しがっているもの」を見極めるのに最高の場所です。
単行本を一冊だすためには莫大な経費と労力がかかりますから、
各出版社、各書店ともに選りすぐりのマーケッター陣が市場をリサーチし、
売れる蓋然性の高いと判断したジャンルで、売れる蓋然性が高いテーマを、
その道のプロフェッショナルに依頼して執筆してもらうわけです。
論破に関する本が増えているということは相手を打ち負かす切り返しトーク術や、
口論で負けないスキルの需要が上がっているということに他なりません。
議論においては確かに、自分の意見を言語化できることはとても大切です。
「言葉」がなければ「議論」も当然あり得ません。
しかし、だからといって「論破」が重要だということにはならないと思います。
論破は「論で破る」と表現できますが、
ここにあるのは明らかに目の前の人への「敵意」です。
今、論を交わしている相手を敵として見ない限り「論破」という表現は出てきっこありません。
議論相手を親しい味方と見なすならば「論で破る」必要は全くないですから。
議論の相手は敵ではありません。
そもそも議論とは勝ち負けのゲームではありません。
ある議題について、
Aという観点がある。
Bという観点がある。
Cという観点がある。
A〜Cにはそれぞれメリットもあるがデメリットも少なからずある。
ではA〜Cを踏まえて乗り越えられるような「D」という観点はないか。
上記の手続きの手段のひとつが議論です。
見ていただければお分かりのように、
ここに敵を見出す必要は一切ありません。
むしろ、例えばBという観点の持ち主を敵とみなし論破してしまった場合、
Bの悪点と良点を共に論議の俎上から消し去ってしまうことになるため、
議論において相手を打ち倒すべき敵として論破するのは非常にもったいないことだとも言えるのです。
相手を敵視し、完膚なきまでに否定し、自分の我を貫き通して優越感にひたり、気持ち良くなってニヤニヤしたいだけなら「論破術」は非常に有効です。
そういった生き方もおそらくナシではないと思います。(周囲から仲間はいなくなってしまうかもしれませんが…)
しかし、
議論をより生産的なものにしたい、
自分の言語化力を上げていきたい、
ビジネスなどで新たな観点が欲しい、
口喧嘩ではなく交渉に強くなりたい、
自分の価値観をブラッシュアップしたい、
これらのように考えている人にとって、「論破すること」は弊害でしかないのです。