「小説を読むことってなんか意味ありますか?」
高学歴の人、特に理科系に秀でている人からよくされる質問です。
彼らはきっと、
・小説は論理的ではなく法則性がないからつまらない
・小説より学術系の本やマーケティング関連の本を読んだほうが実りが多い
・小説は客観的ではなく著者の主観にすぎない
・言ってしまえば小説は娯楽にすぎず、時間の無駄だ
このように考えているのでしょう。
私はブログ内で何度か読書論を書いていますが、それらの記事でも述べているように
原則として読書は趣味でいいと思っています。
つまり、映画や劇のように「何かに役立たせよう」という意識のもとで見るのではなく、
それ自身を楽しむために鑑賞するのです。
「読書自身が楽しいから読書をする」
「小説自身が楽しいから小説を読む」で良いと思っています。
しかしながら、「あえて、目的意識を持って、背筋を正して」小説を読む意義も大いにあると感じています。
その理由は「小説が人間関係と有機的な感情の絡み合いにおける仮想体験の宝庫だから」です。
小説では、主人公もしくは登場人物の視点から現実では到底味わえないような代理経験や、
少し先の現実で現れそうな代理経験まで、
さまざまなシチュエーションを、さまざまな視点より、さまざまな感情とともに味わうことができます。
例えばSFものやファンタジー関連の小説では現実では起こり得なそうな状況を主人公などの視点より味わっていくことで、
より奥深い創造性を手に入れることができるでしょう。
例えばリアリズム的な小説では自分と"瓜二つ"のような登場人物が現れるかもしれませんし、「自分の十数年後の姿」のような登場人物が活躍しているかもしれません。
運良くそのような小説と出会えれば「人生の予習」とも言えるような代理経験ができるのです。
私の周囲や様々な伝聞をもとに端的に言ってしまえば、
「頭の良い人」ほど人の気持ちが分からない傾向が強いです。
「頭の良い人」ほど小説を読むべきなのです。
地下鉄サリン事件をおこしたオウム真理教団の幹部は東大卒、東工大卒、慶應医学部卒を含めた超エリートで占められていました。
彼らは間違いなく日本における稀有な頭脳の持ち主です。
しかしながら、後の手記やインタビューなどを見る限り彼らは「人の感情」というものにあまりに鈍すぎた。
彼らの頭脳をもってしても「倫理」「感性」「感情」の有機的な経験が欠乏していれば
あのような大事件の一翼を担ってしまうことは起こり得るのです。
人の感情の絡み合い、人の感性の「ふわっとした」感覚を完璧に掴み把握するのはあまりに難しいことです。
その100%の理解は難しいと言っていいでしょう。
しかしながら真面目に小説と向き合うことで、たくさんの小説を読むことで、
「こんなにも人は多様な考え方をし、かつ一方である種の普遍的な感性のようなものもあり、人というのは奥深いものだな」ということを悟ることができます。
それは間違いなく、ビジネスや現実世界で「役に立つ」ものです。
「小説を読むことってなんか意味ありますか?」
この冒頭の質問に対し、私は強く肯定したいと思います。
小説を読むことには、大きな意味があります。