1950年代に日本に初めてテレビが登場した時に、評論家の故・大宅壮一氏は
「テレビという最も優れたマスコミ機関により一億総白痴化の運動が展開されている」と発言し、「一億総白痴化」という時代の流行語が生まれました。
「白痴」というのは聞き慣れない人も多いと思いますが、「馬鹿」よりさらに強めのニュアンスを含んだ、
「相当頭の悪い人、知能指数が見るに耐えないほど劣っている人」という意味です。
つまり大宅氏は「テレビを見るとマジで馬鹿になるぞ」と言っているわけですね。
テレビ発展の黎明期にマスコミやテレビによる弊害を見抜き、喝破したとして「一億総白痴化」という言葉はとても有名になりました。
(バブル期の「一億総中流」はこの語感を引き継いでいます。)
「テレビを見ると白痴になる」その理由として主に大宅氏は「テレビというメディアの簡易性と受動性」をあげています。
たとえば「読書」という行為は、
小説などの物語であっても圧倒的な情報量が含まれている上に、文章のみで描かれているから想像力を駆使して補う部分が多量にあるゆえに能動的に脳を使わないと読み進められない。
学術書などは言わずもがな頭を使う。よって脳が自然に高水準に鍛えられる。
テレビからは大衆受けの大して内容もなければ頭を使うでもない番組がひたすら垂れ流されていて、
視聴者は受動的に、何も頭を使うことなく1日中でもそれを見ていることができる。これでは日本人の脳の劣化は時間の問題だ。
このように言うわけです。
「テレビを見る」と言う行為の
・簡易性(コンテンツが質・量ともに薄い)
・受動性(煎餅をかじりながらでも見れる)
・大衆迎合性(大宅氏の言う、"馬鹿な人"に向けたコンテンツが大量に放出される)
が、当時の知識人から見たら大問題に見えたわけです。
時が経ち、21世紀、令和の時代。
「テレビ離れ」ということがしきりに囁かれますが、
これは大宅氏の望んだ方向性のテレビ離れではなく、その逆です。
私から見たら、主に若い人にとって「テレビ」すら見るのが大変になってしまったものと思われるのです。
テレビは確かに、簡易的で、受動的で、大衆迎合的なものです。
しかし、1時間以上の「まとまったコンテンツ」では一応あります。
でも現代はインスタ、TikTok、YouTubeなど
10分以内の「インスタント・コンテンツ」の大洪水の時代です。
今の10代〜30代の人は1時間のテレビを見ている時ですら片手にスマホを持ち、同時並行でストーリーズを見ていたりします。
映画など2時間以上の尺になってしまうと、もはやLINEやSNS通知が気になりすぎて
「見てられない」というのが若い人の本音なのだと、ニュースにもなっていました。
今の若い人にとって「1時間」というのはとてもとても集中し続けられる長さではないのだそうです。
映像コンテンツであれば「10分以内の、しかも編集によりテンポ良く区切られた動画の大量消費」が、
この時代のメイン・ストリームだと言っていいでしょう。
私が思うに、読書や芸術鑑賞は今後ますます一部の知識人の嗜みとなっていくことでしょう。
もしかしたら「テレビ」すら今後は知識人の趣味になってしまうのかもしれません。
インスタとTikTokとYouTubeがメイン・ストリームとなった現在。
大宅氏がこの時代にいたとしたら一体なんと言っていたのでしょうか。