「人にどう思われるか」が僕の人生を通して非常に大きなウェイトを占めてきた。
当ブログで何度か書いたけど4人兄妹の長子であったことも非常に大きいと思う(妹が3人いる)。
思えば幼少の頃より良き兄であろうとし、自分なりに良き男であろうとしていたと思う。もちろんそうすれば両親、特に母親からよく褒められ、承認を得ることができたからだ。「男は皆マザコン」とか言うとても主語の大きな迷言には意義を挟みたいが、年少の男の子は皆マザコンであるというのは決して主語の拡大では無いし否定の余地がないように思える。(もちろん女の子だって、小さな子であれば誰だってそうだろう)
そして4人兄妹の長子という役割は自然と僕を承認欲求の権化のような人間にした。早い話が、僕はとても認められたがりで目立ちたがりになったのだ。
多くの承認欲求が強い人がそうであるように、僕は成長の過程を通して、そして成人してからもなお、人の目に敏感に反応し、人の期待に答えようとし、人からどう思われるかを無意識的に最重要視しつつ生きてきた。
例を挙げようとすれば100ほど思いつくことができるが特に顕著だったのは飲みの席など多人数が集まる場所だ。僕は自分が最も注目されたがったし、自分が関心を寄せられないことを受け入れられなかった。
多くの目立ちたがり、承認欲求の強い人がそうであるように、自分が場の中心に居られない席は苦痛に感じた。それは必ずしも盛り上げ役になりたいということではなく、(盛り上げ役というのは周囲の関心を引き受ける一例にすぎない)クールなキャラでだったりしたし、いじられキャラだったりしたし、ふとシュールなことを言うキャラだったりした。周囲の関心を集められれば何でもよかったのだ。
当ブログ流の表現を使えばこれは間違いなく他人軸というやつだ。
大それた表現を使えば「自分の存在価値」のようなものが周囲に委ねられてしまっている。周囲の人ありきの、周囲の承認ありきの、「自分」になってしまっているわけだ。
僕は他人軸は抜け出しましょうということをよく提唱しているが、他人軸の何が僕たちを生きにくくさせるかと言えば何か行動を起こそうとする時の、または何か言おうとする時の「判定基準」のようなものが他人に委ねられてしまうから。自分がやりたいこと、自分が言いたいことではなく「他人によく思われそうなこと」「他人に評価されそうなこと」を言おうとし、やろうとするからということになる。
これはありきたりな表現を使えば「振り回される」ということだし、自由な状態とは言えない。
もちろん人間は社会的な動物であり、完全に他人の目や評価から自由になることは不可能だと思う。それでも、その割合というか「自分軸度」を増加させていくと格段に楽になるし、選択の幅が増える。それは自由に直結する。生き方を自分で選んでいるような感覚が芽生えると思う。
社会、会社、親、子、恋人、パートナー…僕たちは様々な「他人」の目に晒されている。そんな中で自分軸を高めていくのは中々簡単なことてはない。是非、過去の僕と同じような境遇にある人はこのブログなどを参考し自己肯定感を高め、自分軸を少しずつ確立して欲しい。